投稿日:2008-06-29 Sun
傘さして足元濡れる子どもの記憶
投稿日:2008-06-29 Sun
逃げた猫の光る目だ
投稿日:2008-06-20 Fri
たわむれに一人跳ねる足鎖骨くぼませ雨水溜まれ
投稿日:2008-03-25 Tue
彼のデニムの後ろポケットには、いつも一つの小石が入っていた。それは彼の手によって念入りに磨き上げられていたようで、周囲の風景をその灰褐色へおぼろげに映し込んでいた。その小石は艶やかであった。卓上に垂らした水銀がそのまま凝固したならばあの小石と等質の光沢を持つだろう。形はやや平たい歪な楕円形。外反母趾の小指の先端部を連想させるような醜い形状であったように記憶している。いや、この小石の醜さは彼を嫌悪する今の私の心を反映しているだけなのかもしれない。正確にどのような形であったか今となっては確認の仕様もないだろう。
※私と彼は大学の研究室の同級(何を専攻?)
※私/彼=煙草/石
※夢遊病者のように歩く彼→ムユという暗語で呼称(誰も彼の名を覚えていないだろう)
私は脱ぎ捨てられた彼のデニムの後ろポケットから小石を取り出して、それを口に含んだ。(舐める描写を艶かしく→見たこともないほどの光沢、そこに映りこむ「私」の顔)
投稿日:2008-02-27 Wed
東京藝術大学卒業制作展に先日行ってきました。野心的・・・というか奇を衒ったような作品も多く、芸術的素養の皆無な私には理解が難しかったのですが、それはそれで雑貨屋のカタログをめくるように楽しめたので良かったです。
その中でも個人的には落語をモチーフとした小池真奈美さんの油絵が素敵だと思いました。
背景のとろけるようにやわらかいクリーム色がふんわりと甘かったです。
んで、この展覧会を見て最も強く感じたことはですね、「芸術的な素養のない人間が美術(芸術)を見る際、何を基準にしたらいいのか」ということです。
私は全くの門外漢なので専門的なことは分かりませんが、美術(特に絵画?)というのは現在おそらく権威付けされている分野の一つでしょう。
ドラマや小説といった物語の中で金持ちが好んで家に絵画を飾ることが顕著にこれを示しているように思われます。
こうした物語の中で金持ちの所有する絵画とは、その金持ちが「その絵の持つ価値を理解する教養人」であることを意味します。(あるいは自身を教養人であると見せようとする矮小な金持ちを逆説的に表現します。)
ここでは「価値の有無」が美術への評価の基準となっていると言えるでしょう。
そして、この「価値の有無」の保証の最たるものは「誰がその作品を創ったか」ということです。簡単に言っちゃうとネームバリューってやつではないかと思います。
このネームバリューに代表される「価値の有無」を基準とする美術の評価は、何も物語中の金持ちにのみ限定される話ではなく、無意識のうちに私たちも行っているように思われます。例えば、その道の大家の名前が冠された美術展が大盛況になるみたいなこともこれの表出でしょう。また、その大家の絵をきれいと思う自身の心の働きはそれ自体が純粋な「印象」ではなく(もっとも「純粋な印象」なんてものは存在しないように思いますが)、「その大家の絵だから」という自身の思いに無意識的にでも影響されたものでしょう。
んで、再び東京芸大の卒展の話に戻りますが、これに出展されているのは学生(または院生)の方です。
(私が知らないだけで有名な方もいるのかもしれませんが)ネームバリューはあまりないように思われます。
彼らの作品を見る際、その基準としてネームバリューや「価値」に頼ることはできないわけです。
また、「芸術的な素養のない人間」である以上、技術的なことも分かりません。
とすると、単純な「好き嫌い」を判断基準とするしかないでしょう。換言すると「印象」です。
近づいたり離れたり見る角度を変えてみたりして、心に去来する「印象」を待つのです。
・・・なんか冗長になってしまったので、何が言いたかったかをまとめます。
「ネームバリューのない作品、必ずしも社会的評価へと帰結しないで済む作品を見る」という行為は同時に、その自身の抱いた「印象」を通して「作品を見る自分自身を眺め返す」という行為であるという側面を持つのではないかということです。
自己分析的に、ちょっと積極的に知らない美術展へ足を運んでみるのも面白いかもしれないなーというのが今回の展覧会を通した感想なわけです。
△ PAGE UP


